「時計仕掛けのオレンジ」を観て、読書感想文みたいな記事を書いてしまいました。

最近、スタンリー・キューブリック監督の「時計仕掛けのオレンジ」を観ました。

いやあ心地よい「気持ち悪さ」を感じさせてくれる映画だったね。

あらすじを簡単に書くと近未来のロンドン。
主人公はつけまつげがキュートなアレックスくん15歳。
彼は強盗に暴力そしてセックスと自分の欲の赴くままに悪行かぎりを尽くしていました。ある日猫が一杯住んでいるばあさんの家に強盗しに入ったら同じグループの仲間に裏切られ、刑務所へ行く羽目になりました。

さっさと出所したいアレックスくんは刑期が短くしてもらう代わりに新しい犯罪者更生のためのプログラム「ルドヴィコ療法」の被験者になります。

へんな薬を打たれた後にナチス大虐殺や少年たちがおじいちゃんをボコボコにする映画をずっと見せられたおかげで、暴力や性行為に生理的拒絶反応を引き起こす「まともな」人間になり、晴れた出所しましたとさ…。

あとは映画を観ましょう…。

では肝心の感想を書きます。

なにより自分の脳裏にいつまでも残るようなシーンが多かったと思います。「雨に唄えば」を唄いながらの強姦のシーン、壮大なクラッシクをBGMにいきなりスローモーションになって不良グループの仲間の一人を川に落とすシーンなど挙げたらキリがない!!

そしてベートーベンの「第九」をはじめとしたクラッシク音楽と悪趣味な電子音?テクノポップとの混在がこれまた心地よい「気持ち悪さ」を与えてくれます。

ちなみにキュービックと原作者バージェスは滅茶苦茶険悪な仲らしいですね。金やら「時計仕掛けのオレンジ」が有名になり過ぎたこととかいろんな説がありますが、一番有力なのはバージェスが意図した結末にキューブリックがしてくれなかったからのようです。そこら辺の事は是非とも小説読んで、映画も観てみてもらえればわかりますよ!

最後にこの映画は何を言いたかったのかなあと考えると
「国家に統制されるより、街にチンピラが蔓延っている方がまだましじゃね?」ってことじゃないですかね?

この映画の肝は「個人的な道徳心や良心が欠けている人を国家が洗脳みたいな方法で治療するのは本当にいいことなのだろうか?」に尽きると思います。

アレックス君は確かにルドヴィコ療法のおかげで暴力的なことや性的なことを考えたり、実行しようとすると吐き気をもよおしたりと生理的に拒絶します。これって別にアレックス君自体は心の中で「あいつぶん殴りてえ、あの娘のおっぱい触りたい、でもこんなこと考えると吐き気も…(ゲロゲロ)…からやめておこ う」と思ってるわけです。つまり、内面的なものは全く変わっておらず身体的にそれらを受け付けてないだけじゃないですか!?

原作の言葉を借りると

―「善というものは心の中から来るものなんだよ。善というものは選ばれるべきものなんだ。人がそれを選ぶことが出来なくなった時、その人は人であることをやめたんだ」―
(時計仕掛けのオレンジp317から)

―「人は自由意志によって善悪を選べなければならない。もし善だけしか、あるいは悪だけしか為せないのであれば、その人は時計仕掛けのオレンジでしかない」―
(A Clock Work Orange Resuckedから)

この二つの文章が一番的確にこの作品の本質を表しています。

2013年の現在ルドヴィコ療法みたいなことは行われていないにしろ、キューブリックの描いた近未来と今の日本がだぶって見えるのは僕だけでしょうか?最近世間を騒がすいじめ問題や家庭内暴力、どうしても荒廃したロンドンが今の荒んだ日本と重ねてしまいます。

もはや極論を言ってしまえば僕たちはすでに時計仕掛けのオレンジみたいなものかもしれません。僕らは生まれた時にすでに周りの環境、社会から少しずつ洗脳を受けていると言っていいかもしれません。

「道徳のノート」とかいう新興宗教のパンフレットみたいな教材を使用し、先生が「みなさんみんな違ってみんないいですよね?」言い、生徒が「はーい。その通りだと思います」と答える風景を見ると、小さ いころからすくすくと「時計仕掛けのオレンジ」が作られていることを痛感します。

本当に自分の良心は自分の自由意思から生じているのか?
結局は社会や環境から一定の影響、洗脳を受けているんじゃないのか?

とこの映画を見たら疑いたくなるかもしれません。

ライタープロフィール

Naoto Oshita
Naoto Oshita
自意識がスパークしているしがない会社員です。