嘆きのピエタを観てまたしてもレポートみたいなクソ長いブログを書いてしまった~キム・ギドクとかマザコンとか~

じめじめした日にはじめじめした映画が観たくなる。

先週の日曜日、キム・ギドク監督の「嘆きのピエタ」を観てきた。「キム・ギドク誰それ?」と言われる前に短くないけど簡単にキム・ギドク監督の説明をしておく

 

画像はhttp://news.livedoor.com/article/image_detail/6841146/?img_id=3675048より引用

 

キム・ギドクと言えばヴェネチア、カンヌ、ベルリンの名立たる国際映画祭で数々の賞を受賞した韓国を代表する映画監督だ。ただ、業界での評価は賛否両論である。バイオレンスで、背徳的な内容が多いからである。

例えば、「悪い男」ではひと目ぼれした女子大生をヤクザの男が拉致し、売春街に売り飛ばす話で、「魚と寝る女」では桟橋の釣り場で管理人をしながら夜は釣り客相手の娼婦をしている女と、浮気をした恋人を殺してしまい自殺の場所を求めて彷徨う男が出会い、やがて破滅へと向かうさまを官能的に描いた作品である。

ただ世界的にカルト的に人気を誇っている。日本で言うところの園子温みたいなもんだね、多分。

そんなキム・ギトクは2008年から2011年まで新たに作品を撮ることが出来なかったらしい。2008年に制作された「悲夢」での事故によるものである。当時イ・ナヨンが演じる主人公「ラン」が監獄の窓のさくで首をつって自殺を試みるシーンがあったが、実際に俳優が首が絞められたままぶらさがってしまい、彼女は意識を失ってしまう。幸いにも彼女は意識を取り戻し、撮影は続行されたが、キム・ギドク監督は自責の念を感じた。それ以降映画を撮ることが出来なくなったのだ。

 

 

だが、2011年「アリラン」という作品で見事復帰することができた。映画界を離れ、寒村の山小屋に籠もり、隠遁生活を行う姿を記録したセルフドキュメンタリーである。あの事件に関しての赤裸々な思い、怒り、悲しみなど「人間のやわらかいとこ」を十二分に記録した作品であった。

 

 

え~と前置きが長くなったけど、映画に対して半端ない執着心持ち、センセーショナルな映画を撮り続けているのがキム・ギドク監督だ。

 

とりあえず、肝心の嘆きのピエタのあらすじはこんなかんじ。

 

画像はhttp://news.livedoor.com/article/image_detail/6841146/?img_id=3675048より引用

身寄りもなく孤独に生きてきたガンドは債務者に保険をかけると重傷を負わせ、その保険金で支払わせる極悪非道なやり口で借金を取り立てていた。そんな彼の前に母親を名乗る中年女性が出現。疑念を持つ彼だが女から注がれる愛情に次第に心を開いていき……。

 

といわけで借金取りが主人公は「ミナミの帝王」や「闇金うしじまくん」彷彿とさせる。これは実際に韓国で社会問題になっている高利貸しをテーマにしている。貸金業者に対する法規制が甘いため、高金利に苦しめられる人が増加しており、特に町工場のような零細企業がよく被害に遭っている。

ちなみにこの作品はタイトルにもあるようにミケランジェロの代表作“ピエタ”をモデルにしている。“ピエタ”は十字架から降ろされたイエス・キリストを抱く聖母マリア像であり、慈悲深き母の愛の象徴でもある。

 

画像はhttp://mini-theater.com/2013/06/23/27441/より引用

 

劇中でも、イ・ジョンジン演じる主人公ガントが容赦なく町工場のおっちゃん達から借金を取り立てる。どこか淡々としており、元の10倍の金利を請求し、応じない場合は当たり前のように、工場の機械で債務者たちを障害者にし、保証金をせしめ取る。土埃が舞うソウルの町を歩き、町工場から町工場へ借金を取り立てにいくガンドの姿は死神そのものだった。

実のところコリアンムービーは初体験だ。「コリアンムービーはまじグロいからね。気を付けなよ」という忠告を頂いたが、その通りだった。工場の機械で腕や脚を切断するシーンは直視出来ないほど生々しい。

またガンドが取り立てを終えた後、鶏なんかを自分で捌いて丸ごと平らげるシーンが印象的だ。人間他の誰か(何か)を犠牲にしなければ生きてはいけない。その代表例が「食事」だ。他の生き物の命を頂いて、自分は生き延びている。この姿はガンドが債務者から借金の取り立てをして日銭を稼いでいる姿と重なる。ただ、どちらも他のもの(人)を犠牲にしているが、ガンドは対象に対する尊敬の念が感じられない。人や何かを傷つけることに対して、痛みを全く感じていない。だから表情一つ変えずに人を傷つけるし、捌いた動物はずさんに扱っている。

ただ、ガンドも意図して、このような邪悪な存在になったわけではない。母親に捨てられ、愛を感じることが出来ずに人生を過ごしてしまい、人の痛みが分からない人物になってしまった。

 

画像はhttp://entertainment.rakuten.co.jp/contents/0000033981/から引用

 

その欠けた愛を補完する存在として現れるのが、チョ・ミンス演じるミソン。真っ赤なルージュが目を引き、50代とは思えない。美魔女だ、美魔女。正直最初は30代から40代ぐらいに見え、「この人お母さんって無理があるでしょ」と1人で突っ込んでいた。やっぱ熟女というか母性がある人はいいね。

そんなミソンは自らを母親と名乗り、ガンドに迫る。最初はガンドは訝しんでいたが、捨てたことをしきりに謝り、ガンドに対し無償の愛を注ぎ続けた結果、ガンドは心を開くようになる。心開いているっていうよりも、もはやマザコンと化していたよ。お母さんにプレゼントやケーキをあげるのは分かるが、ベットに潜り込んで一緒に寝ようとするなんてマザコンだよ、「ずっとあの子が好きだった」じゃねえか、「冬彦さん」じゃねえか!!でも韓国通によるとあれぐらいが普通らしい。韓国人は気質的に母親を大事にするらしく、それは日本人からしてみればマザコンレベルに接することが普通らしい。このように韓国での血縁関係は日本のそれと比べればかなり濃密で、この事が映画のキモになっている。

 

画像はhttp://d.hatena.ne.jp/mockba/より引用

 

あと、この映画は何より資本主義のゆがみ、慈悲、暴力性などを寓話的に描いている。仕切りにこの映画では「金」という言葉が飛び交う。まるで、お金も登場人物のようだ。そのお金を巡る戦いに負けた者たちがあの町工場の人々で、ガンドは暴力性を持って敗者に歩み寄る。いわばガンドは資本主義のゆがみの体現者である。しかし、ガンドはシステムの中の一つのパーツ、一つの機能に過ぎない。彼は極めて純粋だっただけかもしれない。だが、ガンドの中にも自己があり、自制心があり、自分の加虐性を無視することは出来ない。

この映画に関しては語るべきことが山ほどあるが、根幹の部分はやはりラストを観ずには語れないだろう。ミンスに対して心を開きつつあったガンドだが、二転三転し、さらに最後にどんでん返しが待っている。韓流ドラマでありそうと言えばありそうだが、個人的には心えぐられる思いになった。ただ一つ言えるのはラストシーンはまるで神の視点で、ある種の救済を現わしていたと思う。

 

 

さて「個人の映画レビュー記事かよ、はてぶでやれよ」というツッコミがありそうだけど、多分もう少ししたら、上映映画紹介などしかるべき映画紹介をやるのでよろしくお願いします。

ライタープロフィール

Naoto Oshita
Naoto Oshita
自意識がスパークしているしがない会社員です。